日々

感覚の発達と、ITは、魂の発達を意味しない

『今昔歌舞伎絵草紙』を終え、思ったこと
話し手、吉本隆明『悪人正機』聞き手、糸井重里
この本の内容が今読み返したくなった。これは平成16年に新潮文庫から発行されています。
「情報科学系の人たちっていうのはマルチメディア関係のいろいろなことが発達してきたら、要するに人間の精神もそれにあわせて発達するって言ってるんですね。本を読んでいると全部が全部っていうくらい、そういうことを言ってるんです。そりゃおかしいんじゃねえつて僕は思うわけです。そういうものが発達すると、感覚も発達するっていうだけのことで、精神が発達することとは違うよねって。」「人類の発達というのは感覚器官の歴史じゃない。じゃあ何だって言うと、フランス人に言わせるとたましい何ですよ。日本の言葉では心っていうことかなあ。魂とか心とか、そういう言葉で表現されるものは、ギリシャ時代からちっとも変わってない。発達していない。そういうことは、別にメディアが発達することとは関係ないですよ、と僕は思うわけです。」
情報というのは、垣根を越していけるように思わせて、利益、損得を基本にしている。本当に越えていけるかどうかはどうなのでしょう、そこを考えていくのは、文化の役割と言えるのです。
それでは文化って何かと考えるのに「今昔歌舞伎絵草紙」では普段なかなか気づかないことに遭遇することができました。
舞台、白木の枠の衝立に和紙のスクリーンを張りそこに、デジタル映像の桃山文化の代表作品を投影。芝居は、二人の狂言師(一人は一般募集の中学2年生)が新年に寺社詣にいくところから始まります。そして雪が降ってきたので晴れるのを待っている間に「見慣れぬ人」らしき様々と遭遇する。雪の精は最後はとけていき、次に、梅の精が、新年の挨拶らしき言葉が聞こえるように舞い、消える。次は、桜の枝を手にした天女、男二人は「どなたで御座る?」と出会う度に声をかけていく。天女は「桜があまり美しいので天に持ち帰って月明かりで見ばやと存じ候」と言うと、「とうとうたらり、たらりや」と呪文が聞こえる。橋がかりから、桜の木が登場する。桜の精が登場。この桜、能楽師脇方が持ち出しゆっくりと舞台に置かれる演出。呪文の声は、地唄の三弦と歌によりあたり別世界へとつなぐ役割。天女は、枝を折ったことを「許させたまえ」と詫び桜の蘇生を祈り踊る。次に、藤の精が現れ「稲穂の実りを祈り踊るときはとうとうたらりたらりらたらりら」と言い、藤を三番叟の鈴のようにしゃらしゃらと実りを祈り舞う。最後には、小さな菊の精が現れる。
その間、スクリーンには、デジタル映像「歌舞伎絵図」(徳川美術館蔵)、「花下遊楽図屏風」(国立美術館蔵)の絵が大きく次々に写されている。つながりは、ココロとキモチ。桃山文化時代に描かれた日本を代表する絵と、今生きているワタシのつながりを感じていく。

関わった人の熱意がひとつのひとときをつくり、それを共有できました。

付け足すと魂を磨いてきた人のカラダのキモチはやはりすごい。この時期にご出演を御協力くださったことを私たち次代への大きな愛情に感じさせていただきました。
古老の脇方の役者の方が、桜の木を持ち出された姿の高踏さは空気を払い、橋がかりを歩まれたときには能舞台が異次元といえるその秘密を参加者に伝わっているといいと思いました。何十年もひとつのことに向かい、鍛えてきた人達が何百年もの歴史ある形に心を通わせたらデジタルであろうが子どもであろうが、包み込んでしまう。その魂を感じられ、得難い経験をさせていただきました。(市川櫻香)